◆ 陸軍浅間演習場(長野原町)
≪ 一覧へ戻る
■「追悼碑を守る会」が発行した小冊子の内容を要約すると・・・
(要約) 赤字:チェックポイント)
大東亜戦争の末期、軍部は本土決戦に備えて大本営を長野県松代に移そうと計画しました。 これに伴い、陸軍兵士たちの食糧を生産する農耕部隊として195人の朝鮮人兵士が長野原町の浅間演習場に連れてこられました。 そしてこの朝鮮人たちは強制連行よりも厳しい、徴兵で集められた青年でした。
<<< 検証してみた >>>

 朝鮮人労働者によって掘られた長野県松代の地下壕は今・・・

 「追悼碑を守る会」の小冊子では、この「陸軍浅間演習場」の説明の冒頭、大本営の移設に伴い、長野県松代にも強制連行の朝鮮人が掘ったとされる地下壕があったとの説明があります。 その壕は3,000人の朝鮮人労働者によって掘られたそうで、小冊子には「ぜひ一度見に行ってもらいたいと思います。」と書かれています。 ところがこの場所は壕入口の看板に書かれていたある表記をめぐって大変なことになっていたようです。

≪朝鮮人労働者動員「強制的に」は不適切 長野市が松代大本営の看板から削除≫
http://www.sankei.com/politics/news/140808/plt1408080022-n1.html

≪強制「さまざまな見解」と新表記に付け替え 朝鮮人労働者ら動員で松代大本営≫
http://www.sankei.com/life/news/141113/lif1411130033-n1.html

 「195名の朝鮮人兵士」、実は兵士ではなかった。

 「追悼碑を守る会」の小冊子によると、195人の朝鮮人兵士は強制連行よりもっと厳しい徴兵で連れてこられたそうです。 ところが長野原町誌には兵士ではなく、「朝鮮出身の労務者」と書かれていました。

≪長野原町誌 下巻 737ページ 戦争と町≫
 町の軍事色

浅間演習場

 昭和一七年、太平洋戦争の様相が険悪となりガダルカナル諸島に敵の一部が上陸するころ、軍は将来予想される敵の本土上陸を慮って、 長射程砲の射撃場として浅間山北麓の一部約五百二十万ヘクタールを買収することを決定し、宇都宮師団にこれが買収を依頼した。 師団はこれをうけて直ちに地元町村長にこれについて賛意了解を求めてこれに着手し、十八年四月兵舎の施工を開始した。 兵舎は東兵舎は北軽井沢字地蔵堂に一ケ連隊と二ケ大隊を収容できるもの、西兵舎は嬬恋村新鹿沢地区に一ケ大隊を収容する兵舎と主管事務所等付属建物を構築しようというものである。
 先ず最初に新鹿沢に雇員版居宅が完成し、師団司令部から主管の着任を要請したので、十九年二月主管として坂寄浅太郎が就任して師団経理部出張所を兼ね、演習場一般の業務を開始した。
 十九年八月、第一二七部隊高野少佐以下三五七名を収容、糠塚山付近に飛行場の建設と軍用道路の建設に従事せしめた。 十九年二月に至って前記東兵舎の建設が殆ど完成し、野戦重砲第二二二部隊吉野中佐以下八〇〇名を収容した。 北軽地区の主管事務所は十九年十月三十日に完成し、主管坂寄は鹿沢から北軽井沢主管事務所に着任した。
 こうして東兵舎は相次いで完成し、浅間山麓演習場は名実共に充実してその体系は完備し、東兵舎に野戦重砲部隊を収容すべく準備中のところ、戦局は極めて不利となり、 大本営陸海軍部は最悪の状況を考慮して既に準備しつつあった地下大本営(信州松代)に移転することに決定し、これが準備のため、 十九年度動員計画に基づいて朝霞にあった陸軍予科、本科士官学校生徒を、松代大本営を包囲するような形に配置するようにした。 それは南は長野県望月−田中から群馬県の鹿沢−北軽井沢を連ねる戦である。これによって野戦重砲兵部隊の駐屯を中止し、 代わって北軽井沢の兵舎に本科士官学校生徒の大部分を、新鹿沢兵舎に予科士官学校生徒の大部分を収容し、動員本来の任務につかしめることとなった。 一方これらの部隊や近隣部隊に食糧を供給のため、朝鮮出身の労務者を主体として編成された徳江中尉以下一九五名の農耕部隊も、十九年十月七日に兵舎に到着して開墾事業に従事した。
All RIGHTS RESERVED, COPYRIGHT (C) 頑張れ日本!全国行動委員会 群馬県支部 2011