◆ 中島飛行機後閑地下エ場(みなかみ町)
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■「追悼碑を守る会」が発行した小冊子の内容を要約すると・・・
(要約) 赤字:チェックポイント)
 1945年2月10日夜、米軍の爆撃で中島飛行機製作所(現在の富士重工業)太田工場は壊滅状態になりました。 そのため、利根郡古馬牧村(現みなかみ町)に軍用機の地下工場の建設が計画されました。
 この地下工場の建設を請け負ったのも間組で、岩本発電所の導水トンネル工事に動員されていた朝鮮人、中国人がこの現場でも酷使されました。
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 捕虜の状況について書かれた史料を朝鮮人の状況として引用していた

下記の文章は『古馬牧村誌』において、中島飛行機後閑地下工場建設現場における支那正規軍の捕虜の状況について書かれていたものです。
ところが「追悼碑を守る会」の小冊子には、なんと支那正規軍の捕虜ではなく、「朝鮮人・中国人労働者の状況」として下記の文章を引用していました。そして都合の悪い部分(赤字の部分)は切り取られて引用されていました。

≪古馬牧村誌 第二集 452-453ページ 第三章 軍事 六 飛行機工場建設と三上部隊≫
 古来から、戦に破れ捕虜になった者のみじめさは、さまざまな物の本によって語られているがこの工事に従事した捕虜も決して例外ではなかった。 給与が悪いのか瘠(や)せ衰えた五体に頭髪ばかりがいやに伸び、手足の皮膚は黒光りするほど厚くなった垢がひだを作り、奥深く凹んだ眼光だけが異様に輝いていた。
或る者はボロボロの日本陸軍の軍服をまとい、或る者は南京袋を肩から掛け、中には正規軍の軍服を着ている者もいたが、それはもう軍服などといえるものではなく、 いずれも切れ落ちない様に縄で結び膚の出る処にはセメント袋を当てるなど全くのボロであった。朝鮮人が農家から盗み出して撲殺した牛の生皮をその侭まるめて紐を通し、 靴の代わりに履いていた要領のいい者もいたが、大方の者は素足であった。寒さに霜焼けした部分は潰れ、そこから膿が流れ出し、傷口は泥に埋まっていても彼等に神経はないのか、 一人として苦にする者はなく、監視人の鞭(むち)のまま実に忠実に従った。既に抵抗する気力は完全に失われていたのである。日一日黙々と動くだけでだれ一人口をきく者はなかった。 押せば倒れ、倒れればしばらくの間立ち上がれないほど体力は消耗し、全く骸(むくろ)の集まりにも似た捕虜であった。
 わずか数ヶ月前までは戦場において日本軍と生命をかけて戦っていたこれ等正規軍の兵士も捕虜となって異国に身をさらし、行交う百姓にゼスチャーで塩をほしがり、味噌を請う者が多かったが、 百姓にも既にこの頃には与える塩も少なく味噌もなかったが、それでもみかねた者の差出す僅かな塩には平身低頭その好意に感謝の表情を示していた。
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