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■「追悼碑を守る会」が発行した小冊子の内容を要約すると・・・
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人手不足だった戦争末期、吾妻郡六合村の群馬鉄山で働いていた労働者の中に、「錬成隊」と名付けられた461名の「強制連行朝鮮人」がいました。この人たちはたいへん過酷な重労働を強いられていました。
その他には前橋刑務所の囚人、請負組の労務者、学徒動員、直営工がいましたが、請負組労務者の大半も朝鮮人でした。
そして彼等は日本の敗戦と同時に放り出され、その後の行方はまったく不明です。
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「追悼碑を守る会」の小冊子によれば、群馬鉄山での朝鮮人労働者は「錬成隊」と名付けられた461名の「強制連行朝鮮人」、そして請負組の大半も朝鮮人だったそうです。(請負組とは、半田組を中心とする五十六の請負業者、約三千人)
ところが引用元の「鋼管鉱業株式会社三十年史」には「強制連行」などという記述はどこにもなく、請負組の大半が朝鮮人であることを示す記述もどこにもありませんでした。
「六合村誌」にも群馬鉄山での労務者の内訳が書かれていますが、「強制連行」という記述はどこにもなく、請負組の大半が朝鮮人だとわかる箇所もどこにもありません。
≪六合村誌 691ページ 鉱業≫
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戦争末期の十九年のことであり、いろいろの資材や、労力など、すべてが不足であった。特に労力が著しく、朝鮮人の徴用工三百人が入山したが、六十近い老人までが来る状況で仕事が一向にはかどらない。
焦慮した軍需省の石川軍需官は、前橋の正木行刑局長と相談して前橋刑務所の囚人を使用することになり、特攻隊の名のもとに、四百名の囚人が、囚人服に日の丸鉢巻きをしめて乗り込んできた。
猛吹雪の白根おろしの真只中で、ほとんど上半身を裸にして、作業を行った。これを見た錬成隊(朝鮮人の徴用工)、請負組(半田組を中心とする五十六の請負業者、約三千人)にもショックを与え、工事が目に見えて進行した。
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昭和二十年一月の開山直後の群馬鉄山の状況をみると、次のような構成であった。
○職員一八二名(雇員五十三名)
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内訳
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総務
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二十六名
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勤務
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六十二名
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(労務者の確保のため大変だった)
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資材
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四十三名
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(労務者の食糧の調達までやっていたため人数が多い)
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経理
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十一名
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運輸
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五名
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鉱務
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三十五名
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内訳
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勤労学徒
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二十四名
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直営工
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二一四名
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錬成工(朝鮮人)
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四六一名
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特別採鉱隊(囚人)
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一八〇名
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半田組(吉田工業)
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七〇〇名
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武藤組
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一五〇名
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日新工業
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四〇名
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泉組
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五〇名
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群馬鉄山の開発には当時としては驚くべき巨額の予算が計上されていました。そこで働いていた労働者はたくさん稼いだことでしょう。
≪鋼管鉱業株式会社三十年史 7ページ 第2章 群馬鉄山開発ならびに諸鉱山増産 第1節 群馬鉄山≫
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群馬鉄山(継承以前は草津鉱山と呼称)は企画院および商工省の斡旋により、日本鋼管(株)が昭和18年6月14日岡田英保氏より鉱業権を譲り受け、同年9月1日年間30万瓲、索道2基、総工費1千万円、完成期限昭和19年9月の構想で、ただちに開発工事に着手したが、昭和18年9月11日草津鉱山開発のための官民大協議会が開催され、その結果、開発規模は年産60万瓲、索道3基、総工費3千万円、操業開始予定は昭和19年9月1日と修正された。
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鉱山開発には、三千万円の資金が計上された。もっぱら戦時金融金庫の融資を仰いだのであるが、当時としては驚くべき巨額の金であって、金力と人力に物を言わせ、採算を度外視しての、突貫工事であった。
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1945年8月15日、天皇の詔勅による突然の降伏を日本国民は従容として受け入れました。しかし、それに乗じて大混乱を起こしたのは、日本人とともに戦争を戦ったはずの朝鮮人でした。
進駐軍は当初、朝鮮人を日本人側か戦勝国側かの法的地位を明確にしないまま、心情的に日本人とは区別して扱いました。そのために彼等は戦勝国の人間として扱われるべきだと主張し、突然、日本人に対する不法行為が増えました。特に酷かったのは、進駐軍の名を借りた「朝鮮進駐軍」と言われる朝鮮人三万人もの集団でした。彼らはピストルや日本刀で武装し、武器を持てなかった無力な警察を襲い、敗戦に打ち拉がれた日本人を襲い、土地金品の略奪、銀行襲撃、殺人、強盗、暴行、強姦をほしいままにしました。やがて東京から日本全国に広がり、GHQの記録に残っているだけでも四千人以上の日本人が殺害されました。(日韓併合100年首相謝罪談話に反対する会「日韓併合は日本の誇り」より)
群馬県においては吾妻郡六合村の群馬鉄山にいた朝鮮人労働者247名が、当時この鉱山で操業していた鋼管鉱業株式会社の本社を占拠、種々の要求を出して無法ぶりを示しました。
≪鋼管鉱業株式会社三十年史 26ページ 第3章 終戦措置 第4節 余燼≫
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昭和20年11月4日第1回の送還で、150名が群馬鉄山を去ってから、残り247名は待ち切れなくなり、第2回の割当期日を鉱業所の責任で繰りあげろと迫り、ついに11月24日静止もきかずに大挙して上京し、本社になだれ込んだ。そして本社を占拠して種々の要求を出して無法振りを示した。
当時は警察当局も第三国人に対してはほとんどなすすべがなかったので、やむをえず進駐軍を斡旋したところ、進駐軍憲兵がかけつけ占拠は不当のものだとして即刻退去を命じ監視したので彼等はやむなく解散した。
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