◆ 岩本発電所導水トンネルエ事(沼田市/みなかみ町)
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■「追悼碑を守る会」が発行した小冊子の内容を要約すると・・・
(要約) 赤字:チェックポイント)
 戦争末期、京浜地区軍需工場の電力を確保するために、現在のJR上越線岩本駅の裏側に東京電力岩本発電所(水力発電)の建設が計画されました。 この発電所の水は、現在のみなかみ町上牧と支流の赤谷川の取水口からトンネルで引かれていますが、 この導水トンネル工事でたくさんの強制連行された朝鮮人・中国人が酷使され、多くの犠牲者を出しました。
 工事を施工した間組の社史『間組百年史』によれば「工事に動員されたのは強制連行された朝鮮人、中国人であった。 朝鮮人に関しては当社の労務課が朝鮮に数回募集にいった。動員された朝鮮人の数は約千人に達したという。中国人は中国大陸で捕えられた『俘虜』であり、その数は六一二名であるがこのうち六名は日本への途中で病に倒れた。」とあります。 同百年史はさらに「過酷な作業のため死亡者が続出し、中国人は43名が死亡した。 またこうした劣悪な条件に耐えられず逃亡する朝鮮人、中国人も相継いだ。」と書かれています。
 このように当時の悲惨な状態を物語っていますが、朝鮮人の死亡者がどれくらいいたかについては、資料はほとんどありません。
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 朝鮮人労働者は待遇が不満だったようです。

 中国人を強制連行して過酷な労働をさせたとしてよく引き合いに出されるのが、この岩本発電所の導水トンネル工事です。 まるで日本軍が一般の中国人を強制連行したかのように言われていますが、 上記引用元の『間組百年史』にも書かれている通り、連れてこられたは大陸で捕えられた敵国の捕虜でした。

 同百年史によれば、「過酷な作業のため死亡者が続出し、中国人は43人が死亡した。こうした劣悪条件に耐えられず逃亡する朝鮮人、中国人が相次いだ。」と書かれています。
 「追悼碑を守る会」の小冊子には、「朝鮮人の死亡者がどれくらいいたかについては、資料はほとんどありません。」と書かれていますが、 当時は日本国民だった朝鮮人が、敵国の捕虜と同じように扱われたということは考えづらいのではないでしょうか。

 さらに下記『昭和19年2月 群馬県知事事務引継書』では、そんな朝鮮人逃亡の様子がうかがえます。 同引継書によると、「待遇問題その他云々で逃走した者は273名に上り(岩本発電所以外の現場も含む)、そのうち発見された者は51名で、悪質な者5名は検挙した」とあります。 これを見る限り朝鮮人労働者は、当時敵国であった中国(中華民国)の捕虜と同様に扱われたわけではなく、待遇が不満で逃走を謀ったように読み取れます。さらに間組では朝鮮人労働者1名が不敬罪で懲役10か月に処せられています。

≪昭和19年2月 群馬県知事事務引継書より抜粋≫
近時々局ノ要請ニ基キ鉱山 発電所其ノ他鉄道工事場等ニ朝鮮人労務者ノ入住増加シ 就中国民動員計画ニ基ク集団移入朝鮮人労務者激増ノ状況ナリ  昨年四月十五日 吾妻郡嬬恋村所在北海道硫黄株式会社小串鉱業所へ五十名入山シタルヲ初メトシ 仝年七月以降本年二月二十日迄ニ
 渋川 原町 長野原各署管内発電鉄道両工事場ニ 一,一一〇名
利根郡下ノ日発水力発電工事現場ニ 七六三名
 高崎鉄道改良工事現場ニ 一〇〇名
入住シタルガ其ノ間 待遇問題其ノ他ヲ云々シテ逃走セルモノ 二七三名ニ上リ内発見セルモノ 五一名ニシテ悪質ナルモノ五名ハ 国家総動員法並労務調整令違反トシテ検挙送局シタリ
尚之等労働者ニシテ昭和十八年八月十三日
管下利根郡桃野村大字下津
     株式会社間組山中事務所配下  土工       当 三十一年
ハ不敬言辞ノ為シタルヲ 所轄沼田署ニ於テ検挙 同月二十日不敬罪トシテ送局 十月十二日懲役十月ニ処セラレタリ

以上ノ如ク 今後益々此種移入労務者其ノ数ヲ加フルト共ニ 之ニ伴フ不逞鮮人ノ潜入モ難計ク 又彼等ノ通有性タル住所移動乃至逃走或ハ多衆ヲ以テスル紛争議ノ発生等  其ノ数ヲ増シ治安上看過シ得サルモノアルベキヲ予想セラルヲ以テ視察取締、完璧ヲ期シツアリ
【編集者注:就中(なかんずく)】
 「朝鮮人労務徴用者」強制連行の嘘とまやかし
 (下記、朝鮮人実体験本や元本から)

 岩本発電所の工事を施工した間組の社史『間組百年史』によると、 「朝鮮人に関しては当社の労務課が朝鮮に数回募集に行った。 動員された朝鮮人は約1,000人に達したという。」と書かれています。
 ところが「追悼碑を守る会」の小冊子によると、ここでの「募集」とは「強制連行」のことなのだそうです。

≪日韓併合は日本の誇り(「日韓併合100年」首相謝罪談話に反対する会) より抜粋≫
 朝鮮人の強制連行を証明すると言われる古典的存在が、朴慶植の『朝鮮人強制連行の記録』である。しかしこの本には致命的な欠陥がある。
 「もっともひどいのは労務の徴用である。戦争が次第に苛烈になるにしたがって、朝鮮にも志願兵制度がしかれる一方、労務徴用者の割り当てが相当厳しくなってきた。 納得の上応募されていたのでは、その予定数に仲々達しない。そこで郡とか面(村)とかの労務係が深夜や早暁、突如男手のある家の寝込みを襲ひ、或ひは田畑で働いている最中に、トラックを廻して何げなくそれに乗せ、かくてそれらで集団を編成して、北海道や九州の炭鉱へ送り込み、その責を果たすといふ乱暴なことをした」と書かれており、これは『朝鮮親話』(鎌田沢一郎著)からの引用であるという。
 しかし原典とされる『朝鮮新話』には、「乱暴なことをした」の後に、「但(ただ)総督がそれまで強制せよと命じたわけではないが、上司の鼻息を窺ふ朝鮮出身の末端の官吏や公吏がやってのけたのである」と書かれているのである。成績を上げようという末端の朝鮮人官吏が主体となった心得違いの行為なのである。
 これと同じことは「創氏改名」のときにもおきている。
『朝鮮人強制連行の記録』に「強制連行」を証明する資料として表紙が写真版で出ている「朝鮮人徴用労働者管理」の内容にしても、いかに徴用労働者を気持ちよく能率よく働かせるかということが書かれているだけである。別に何の問題もない。
 仕事が過酷で朝鮮人は逃亡したと言うが、この資料によると、彼らは二、三日で逃亡するとあり、鉱山労働を目的としておらず、内地渡航が本来の目的であるとして使用者側が困惑している。 内地渡航とは派手な都会での就労が目的である。こんな山の中など沢山だというわけである。どちらが正しいのか公正な比較をしようともしない。渡航費用は誰が負担したというのか?
 以上のように朴慶植は自分にとって都合のいいところだけを引用し、あたかも朝鮮総督府がめちゃくちゃな人間狩りをしていたかのように見せかけているのである。
 鄭忠海が書いた『朝鮮人徴用工の手記』によると、彼は日本人の戦争未亡人と仲良くなり、その家に寝泊まりしながら広島市内の工場に通っていた。どこにも苛酷な強制連行の事実など見受けられないのである。
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